西から東に流れてきた神田川が、大きなカーブを描いてほぼ南に方向を変えるこの場所一帯を「大曲」(おおまがり)と呼ぶ。著名なエジプト考古学者・早稲田大学吉村作治教授はこのへんが出身地だそうだ。
首都高速と、その先にそびえる凸版印刷「小石川ビル」の壁面のカーブがシンクロして(意識的?)、ちょっと面白い景観になっている。
まさにその「大曲り」している地点にかかるのが白鳥橋で、写真奥には大曲交差点がある。
カーブの内側は学術書出版大手「朝倉書店」の本社ビル「アクロポリス東京」。
「柳橋」の名は、もとは少し南の薬研堀(やげんぼり)にかかる橋の名としても使われていた。
そこへ現在の柳橋が加わったため、重複を避けてこの元祖のほうは「元柳橋」と呼ばれるようになったという。
詳しくは薬研堀/元柳橋跡のページへ。
明治の文人・島崎藤村は、『破戒』でいちやく文壇の寵児となった直後の明治39年10月から大正2年2月(フランスに遊学)まで約7年間、この柳橋付近……当時の地名でいうところの浅草新片町一番地(推定位置の地図にリンクしています)に居住、この地で「春」「新片町より」「芽生」「千曲川のスケッチ」「後の新片町より」などの作品を書いた。
※現地には特に記念碑等はありません。
藤村はこの地で妻と死別、男手だけでの子育ては困難ということで住み込みの家事手伝いにきていた次兄の娘(つまり実の姪)を妊娠させてしまう事件を起こし、後にその一件を小説『新生』にしている。
ただし、小説の結末あたり(ふたりの別離が描かれている)は実際にはまだ二人が関係をもっている間に書かれたもので、むしろこの小説を書くことでふんぎりをつけて実際に別れた、という順序であったようだ。
南側橋詰に平成4年に建てられた石碑の銘板には、正岡子規が柳橋をテーマに詠んだ俳句が2つ紹介されている。
- 春の夜や女見返る柳橋
- 贅沢な人の涼みや柳橋
かつて江戸随一の歓楽街であった両国は目と鼻の先で、吉原方面への渡船場であり、さらにこの地区自体も花街として発展。昭和初期頃まで、料亭や船宿などが建ち並ぶ情緒あふれる地区であった。
現在も、川の両岸に並ぶ屋形船の発着場がその片鱗をうかがわせているが、芸者さんのほうは1999年に組合が解散してしまったとのこと。
現在の柳橋は鉄橋で、大正の関東大震災で旧柳橋が落橋したのをうけて架けられた。永代橋のデザインをモデルとし、耐震構造に配慮した鋼鉄橋で建設されている。
平成3年~4年には、傷んだ親柱の復元、花街にちなんで欄干にかんざしをあしらい、歩道には御影石を貼り、夜にはライトアップされるなど、橋の存在感をアップする一連の工事が施工され、周囲の景観とあいまって、なかなか情緒あふれるスポットとなっている。
柳橋は、神田川の一番下流で隅田川に流入する河口に架かる橋。
以下、橋の南詰にある碑文からの受け売りだが、江戸時代後期の記録によれば、幕府の命で当時の町年寄の樽屋藤右衛門により木橋がつくられ、川口出口之橋、または矢の倉橋と呼ばれたのが起こりという。
現在の「柳橋」の名の由来については、下記の諸説があるようだ。
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