中之橋 [神田川]

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凸版印刷御用達の橋

 都心の地図帳を見ても名前の表示が省略されていることの多い目だたない橋だが、歴史は意外に古く、隆慶橋石切橋間に江戸時代から唯一存在していた橋である。
 といっても簡素な木橋だったようだし、名前も「之」抜きで「中橋」(なかはし、なかばし)と呼ばれていたようだが、とにかく昔から人はここを往復していたのである。
 名前は上記2つの橋の中間にかけられた橋、という意味合いからつけられたようだ。
 自伝「蝦蟇の油」によれば、故・黒澤明は少年期、通学や剣道場への往復によくこの橋を渡っていたらしい。
中之橋とトッパン小石川ビル
 2000年に新築された21階だての「トッパン小石川ビル」(印刷博物館も併設)の正面玄関のような位置にあり、自動車はあまり通らないが、同ビルへの通勤・用務、見学目的などで歩行者の行き来が多い。
 そのせいか同社ビル新築とほぼ同時期に近代的デザインに改装されている。路面はタイル舗装で、照明が埋め込まれていてかなりお洒落だ。

 このへん一帯は明治時代以降は桜の名所、舟遊びの名所で、その桜の下を都電が走っていた時代もあった。船河原橋に堰が設けられていたため川の水位はもっと高かったようである。(水害の危険も大きかったわけだが)。
 写真の首都高速(池袋線)の橋脚を桜並木におきかえ、護岸がもっとなだらかで草に覆われている状況を想像してみれば、それがおおむね昭和40年代より前のこのあたりの風景ということになる。

●明治時代の中之橋

明治時代の中之橋・洪水風景
 明治末期の中之橋の水害の模様をとらえた絵葉書写真(運営人所有)より。
「明治43年8月10日 東京江戸川附近大洪水 仲ノ橋騎馬警戒ノ實況」
 という説明がついており、この説明の地名、写真の地形、橋の規模などから、この附近で起きた洪水の様子をとらえたものと思われる。(面影橋下流にある仲之橋はこの時期にはまだない)
 この時代、近辺は桜の名所となっており、写真にも両岸に桜の木が見える。
 橋の対岸は現在と同様にT字路状だが、トッパン小石川ビルの位置には商店が並んでいる。左端の看板は拡大してみると「煙草」と読める。ほかの2軒の看板は判読困難。

●おすすめリンク
東京アメッシュ
 東京都下水道局によるリアルタイム降雨情報サービス。

有名な同潤会江戸川アパートは建替え完了

江戸川アパートメント
 中之橋から南にまっすぐ入ってすぐのところにあったのが同潤会江戸川アパートメント。
 1934年(昭和9年)落成、戦前からの歴史を持つ集合住宅のパイオニア・同潤会が最後に建てた、当時としては非常に進歩的な設備を持った「東洋一」のアパートとして有名だったが、さすがに寄る年波には勝てず、 edogawa_apartment02.jpg 2003年5月1日着工、平成17年(2005年)には最高11階だてのマンションに生まれ変わった。
 上の写真は2003年4月24日、工事を待つばかりとなった時点のもので、すでに建物内にはひと気がなかった。現在は下の写真のように、従来のイメージも継承するかたちで、なかなかユニークな構造の新築マンションに生まれ変わっている。名前は「アトラス江戸川アパートメント」となっている。
建て替え後の江戸川アパート
下の写真はまだ現役の1998年5月30日に撮影したもの。
女優の坪内ミキ子さんが長年住んでいることでも有名だった。
edogawa_ap1998a1.jpg edogawa_ap1998b1.jpg edogawa_ap1998c1.jpg

●江戸時代から道路配置が変わっていない新小川町界隈●

 大曲のカーブの内側、江戸川アパートとその周辺一帯の町名は「新小川町」。いまひとつ歴史の重みを感じさせない地名だが、江戸時代からずっと「新小川町」だったらしい。
 このあたりは幕末までほぼ全域が中小旗本屋敷だったが、今はマンションや印刷工場、製本工場、商店などが混在した、ちょっと雑然とした印象の街になっている。
 実はぼくは以前、しばらくこのへんに仕事場を借りていたことがあり、そのころ不思議に思ったのが「道の配置」だった。
 一見整然としていながら、どうも道路の配置が生活動線に適合していないというか......特に江戸川アパートの正面にあたる道は南北250mぐらいにわたって東西に抜けられるマトモな横道がなく、近くの商店街(江戸川橋近くの地蔵通り商店街)へ行こうとすると、民家の軒先をかすめる幅1mほどの薄暗い裏道を抜けていくしかなかったりする。
 裏をかえしていえば、そういう抜け道が発生せずにはすまないくらい道路配置が生活に密着してないわけで、そのことが街の「雑然とした感じ」を倍化させている気がしたのだ。
 で、後に「江戸東京重ね地図」で過去と現在を比べてみたところで疑問は氷解した。神田川沿いの目白通りが拡幅された点を除けば、このあたりの道路の配置はほとんど江戸時代と変わっていなかったのである。
 つまり、もともと中途半端に広い旗本屋敷が並ぶ一角であったがために、いまいち使い勝手の悪いざっくりした道路配置が現在まで受け継がれてしまった、ということらしい。