船河原橋(ふながわらばし,ふなかわらばし) [神田川]

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変則「六叉路」の足元

 飯田橋交差点は外堀通りと目白通りの交差点であり、かつ大久保通りの起点であり、さらに目白通りと並行した神田川の対岸の通り(一方通行)も合流する「変則六叉路」になっている。

 その複雑な交差点の直下が神田川と外堀の合流点となっており、その神田川本流側にかかっているのが船河原橋。

 現在は、外堀通りに属する本来の橋と、目白通りへの左折専用の橋との2つで1セットになっている。
飯田橋交差点
 また、飯田橋とこの「左折専用の船河原橋」は、下の写真のように完全に隣接しており、よく見るとこの橋を通すために飯田橋の旧歩道部分が少し削りおとされているのがわかる。

 なんとなく飯田橋がカワイソウな感じだが、JRや地下鉄(実に4線が集まっている)の駅名となっている「飯田橋」のほうが知名度ははるかに高いわけだし、ま、おあいこみたいなもの!?
船河原橋vs飯田橋
 現在の船河原橋は昭和40年のものだそうだが、その後歩道橋が作られた結果、橋の南北両側の歩道はどちらも「明らかに歩道なのに歩行者が入り込めない」という、ある種微妙な立場の空間と化している。
 まあ、自転車でなら専用横断道を通って堂々と行き着くことができるし、マラソン開催日などは別の話になるが......。

船河原橋の「通れない歩道」

旧「江戸川」「神田川」の境目

 江戸時代、船河原橋のすぐ下には堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていたことから、別名「どんど橋」「船河原のどんどん」などと呼ばれていたという。
 また、ここから上流(旧名・江戸川)は御留川=禁漁だったが、下流に流れ落ちた魚を獲るぶんにはおとがめなしだったため、釣り糸を垂れる人々も多かったそうだ。 

「原始神田川」はここからさらに南下していた

 家康が江戸に入ってもろもろの都市整備がなされるまで、平川(神田川の前身)はここからほぼまっすぐ南下していたが、治水工事の結果、ここから下流はいったん完全に川が埋められ、新たに掘られた「神田川」がほぼ東へまっすぐ延びて大川(隅田川)に注ぐようになった。

 現在は再び下流方向への水路(日本橋川)が小石川橋下流から分岐するかたちとなっているが、こうなったのは明治36年のことで、堀留橋から上流の川筋は往古の平川より少し東側にかたよったルートをたどっているそうだ。

江戸時代は俗名「どんど橋」

 江戸時代にはこの橋のあたりに堰があり、常に堰から流れ落ちる水の音が響くため、「船河原のどんどん」「どんど橋」などの異名があった。
 この堰は海水がここより上流=江戸川に入り込むのを防ぐとともに、江戸川(船河原橋から関口までの区間)の水深を上げる効果をもたらしていたわけで、鯉などの川魚が豊富だったようだ。
 ただし「御留川」=禁猟の川となっており、一般の江戸市民がこの江戸川の魚をとることはできなかったが、橋から川下(神田川)は禁猟ではなかったため、江戸川から下ってくる魚目当てに橋の上から釣糸を垂れる人の姿が多かったという。