中学一年コース(中一コース)

 この雑誌とぼくとの出会いは、読者としてなら小学校1年生のころ、6歳上の姉が読んでいたのを(手塚治虫のマンガのページだけ)読んで以来ということになる。また、自分自身が中学1年になったときには、マンガの投稿ページ(つのだじろう・選)に1コママンガを投稿して採用された経験があった。

 が、後には自分自身が、作る立場の一員としてかかわることになる。

 いきさつはこうだ。
 まず、1975年の6月ごろ「おならのブルース」を見た同誌編集部から声がかかり、8月号で「どっか~ん夏休み」という記事を漫研部員数人で共同製作することになった。
 出版社との打ち合わせ、全体の構成などの大枠をぼくが担当し、絵はを部員で合作する形だったが、このとき、2年先輩の ひめ ひめの 氏(現在もプロのマンガ家として健在のハズ)が、狂言回し役として「ヤナケン」というキャラクターを即興で創作した。

 この記事は好評のため翌月から連載化され、「読者投稿作品を紹介しながらその周囲にマンガでチャチャを入れる」というパターンになる。そのチャチャ入れ役として「ヤナケン」のキャラクターも定着することとなった。

 ……と、これがぼくの「ヤナケン」「YanaKen」という愛称のそもそもの由来。当初は仕事でだけ使っていた名前だが、だんだん私生活上もこれが通称となって現在に至っている。

 翌76年も連載は続いたが、毎月部員をたくさん集めて合作するのは大変なため、ぼくが可能な限り描き、ゲストとして毎回1~2人、ぼくより絵のうまい部員に手伝ってもらう形になってゆく。
 この時期とくに印象に残っているのは、何度も手伝っていただいた故・安藤しげき氏(文春漫画賞受賞。JRのPRマンガ「しげき君」などで著名。97年に逝去)の画力だ。
 ほとんど下書きなしで、生き生きとした絵をどんどん描いてしまえる才能には心底舌を巻いた。また、気配り型というか、本当に心やさしい「よき先輩」だった。

 この「中学1年コース」の連載は78年3月号まで3シーズン続き、ぼくの「月刊OUT」編集部への就職(おっと、この話は別途……)で終了した。

 なお、「中学1年コース」は1999年3月号をもって休刊となった。「学年別」の「学習雑誌」という存在自体が中途半端な存在となってしまって久しい中で、むしろよくぞここまで存続したものだという感慨の方が個人的には強い。