1991/09 「ソ連のクーデター騒ぎ」の波紋

 1991年8月19日から3日間にわたったソ連のクーデター騒ぎは、世界各地で多方面にわたる波紋を呼び起こしたが、じつは筆者も、ささやかな実害を受けた一人である。ほぼ完成していたコラムの原稿を1本、この事件のためにボツにするハメになったのだ。

 その原稿は、ほかでもないソ連をネタにしたフィクション仕立てで、次のような内容だった。

 70数年の社歴を誇りながら今や倒産の危機に瀕しているソビエト・ユニオン・カンパニーのゴルバチョフ社長が、カスピ海沿岸の別荘で束の間のバカンスを楽しんでいた。
 すると彼のもとに腹心の重役たちが突然訪れて退陣を迫り、拒否した彼を軟禁して、「社長急病のため副社長が昇格」との発表を行なった。
 しかしこの新体制はわずか3日で崩壊した。その理由はこうだ。
 実はゴルバチョフ社長は、以前から"ペレストロイカ"と銘打って、経営陣が独占していた自社株を次々に放出、社員に無償配布していた。
 したがって、いまや同社の筆頭株主は「社員たち」であり、ゴルバチョフ氏は単なる"雇われ社長"でしかなかったのだ。そんな社長のポストが何の権力も意味しないことに、彼らは社長の椅子に座ってみて初めて気づいたのである。
 ......大筋においてこのストーリーは、ソ連で実際に起きたこととよく似ている。つまり筆者は、事件を事前に予知したことになる!

 しかしこれをいまさら雑誌に載せても、読者にとっては「過去に起きた事件の絵解き」でしかない。だからボツにするほかなかったのだ。

 似たようなこと......つまり「冗談のつもりで書いた話が活字になる前に実際に起きてしまう」経験は、過去にも何度かあった。そのたびに筆者は辛い書き直しの作業を強いられてきたのである。しかも特に最近、そういうケースがどうも目立つ。一体原因は何なのだろう。

 考えられる理由としては、次の4つがあげられるだろう。

1筆者の社会を見る目がとても的確

2すべて単なる偶然

3筆者に未来予知の超能力がある

4今の社会そのものが、筆者の冗談製造能力を越えて冗談っぽい

 真相が1である可能性がないことは自分が一番よく知っている。そして2、つまり偶然であるにしては、あまりに頻繁すぎる。

 では、3なのか、4なのか。

 このさい、誌面を借りて実験させていただくことにしよう。以下にあげる話は、筆者が書いている時点ではまだ起きていない、冗談半分の予測記事である。そして実際に起きたかどうかは、雑誌が書店に並ぶ時点ではとっくに判明しているはず。さて、結果はいかに......?

東京で開催された世界陸上選手権大会で、あのカール・ルイスが、今世紀中に破るのは無理とされていた走り幅跳びの世界最高記録(8m90cm)を23年ぶりに1センチだけ更新した。しかしこの新記録は、折からの台風の影響による強風で「追い風参考記録」に終わる。
 昔から日本は"カミカゼ"が奇跡を起こす国だが、それは外国人には迷惑な風であることが、またしても実証されたのである。
 もしこれがあたったら......と書いていたら、なんと、走り幅跳び決勝のテレビ中継が始まってしまった。しまった、今日やるとは知らなかった。おまけに結果は筆者の予測を越えているではないか。
 やはり筆者の予知能力はあまりアテにならない。ということは真相は4......いまの世の中は、冗談が現実になるどころか、冗談をはるかに越えた事件が平気で起こるほど、とんでもない時代なのかもしれない。

(c)YanaKen as "バニー柳澤" オリジナル掲載誌:集英社「月刊PLAYBOY」1991/9?





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 この原稿は、(細かい内容はすっかり忘れてたけれど)自分でもかなり懐かしい。

 直接のテーマとなっている「3日間のクーデター」は、本文にも間接的?に触れてある通り、1991年8月19日、クリミアで休暇中だったゴルバチョフ大統領が保守派政府高官たちによって監禁され、政権剥奪状態に陥った事件。

 もう1つのネタとなっている「東京世界陸上の走り幅跳び記録」の話は、実際にはマイク・パウエル選手が8m95cmの世界新記録を出して優勝したことを指して「結果は筆者の予測を越えている」と書いている。リアルタイムの読者には周知の事実であることを前提にしていたわけだ。

 実はこのころ「時事ネタをベースにしたコラムを"月刊誌"に書く」というこのPLAYBOYのコラムの仕事につきまとう制約に、相当苦しんでいた。

 執筆から掲載誌発売までのタイムラグがかなり大きい(2週間ぐらいだったかと思う)ため、書いた時点では新鮮でも、雑誌のかたちで読者に届くころには印象が古くなってしまう。そのため「ある程度長持ちするネタを」と、毎回テーマが決まるまで七転八倒の状態だったのだ。

 また、担当者が交代して、いまひとつ気心の知れない相手と毎月1回顔つきあわせながら相談することも少々苦痛になっていた覚えがある。

 そうした悩みがそのままコラムの「趣向」になっているわけで、いってみれば「もうこのコラムをこの形態で続けていくのはツラすぎる」という「悲鳴」を原稿にしたようなもの。「禁じ手」を使っちゃったようなものであった。

 そして実際、このあと数ヶ月でこの連載は終了となった。